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「悲願」に「悲」の字が使われる理由とは? 人間の慈悲と仏さまの慈悲

 

2020/01/16

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
チューリップ企画スタッフのわかです。

大相撲九州場所で小結の貴景勝が初優勝を果たしました。
元々所属していた貴乃花部屋が消滅し、千賀ノ浦部屋に転籍。
慌ただしい中での戦いだったと思いますが、この素晴らしい結果に、新聞などでは「貴景勝、悲願の初優勝!」との見出しが躍りましたね。

「悲願」といえば、「悲願の日本一」「50年ぶりの悲願」などとよく言われますね。
ぜひとも成し遂げたいと思う悲壮な願いの意味で使われています。
ニュースなどでよく聞く言葉ですが、実は元々は仏教の重要な言葉なのです。

「悲」の字はどこから出てきたのか?

一般的な言葉では、悲願の「悲」は悲壮からきていると言われます。
一方、仏教で言われる悲願は、慈悲の悲からきています。
「仏さまが大慈悲心から起こされた願い」という意味があるのです。

慈悲は、「慈」が苦しみを抜いてやりたいという心、「悲」が楽しみを与えてやりたいという心を表しています。
私たちにもこの心はありますが、中でも、子を想う親の慈悲ほど深いものはないと言われます。

親は子供が病気になれば付きっきりで看病してくれます。
仕事や家事でどんなに疲れていても、休日に遊びに連れて行ってくれるのは喜ぶ顔が見たいと思うからこそでしょう。
他人にはなかなかできないことだなあと思います。

「小慈悲」とは人間の慈悲

それほど深い親の慈悲ですが、仏教では人間の慈悲を「小慈悲」と説かれます。
なぜ「小さい」と言われるかというと、次の3つの特徴があるからです。

・平等ではない
・一時的
・先を見通せない

どんなに親の慈悲が深いと言っても、それは自分の子どもに対してのこと。
他の家の子に同じように心をかけられるかというと、とても難しいことだと思います。
自分の家の子と、他の家の子を平等に想うことはできないので、平等ではないと言われます。

一時的、と言われるのは、慈悲の心が続かないということです。
子どもが素直で言うことをきいてくれる時は、いくらでも慈悲をかけることができますが、わがままを言って言うことをきかないと、ついついイライラしてしまう。
そんな話を聞くことがあります。

また、親子の間でなくても、戦争や紛争で苦しむ人、病気で苦しんでいる人を見れば、可哀想だなあ、何とかしてあげたいなあという心が動きます。
呼びかけられたら募金などに協力することもありますが、ずっと同じ気持ちを持ち続けることは難しいかもしれません。
日常の様々な場面を見ても、いつでもどこでも慈悲の心をかけ続けるということは難しいなあと感じます。

3つ目の「先を見通せない」というのは、相手のことを想ってしたことでも、先のことが予測できないことで、結果的には相手のためにならないことがある、ということです。
たとえば、子どもに喜んでほしいからと望むものをなんでも買い与えていたら、わがままな子に育ってしまいます。
後々、その子自身が人間関係に苦労することになってしまうでしょう。

阿弥陀仏の起こされた願い

私たちが起こす慈悲にはこのような特徴があるので「小慈悲」と言われますが、仏さまの先生である阿弥陀仏の慈悲はこの反対で「大慈悲」と言われます。
(阿弥陀仏のことがお知りになりたい方は「阿弥陀仏とお釈迦さまの関係をご存知ですか? 仏教を学ぶときに大切なこと」の記事をご覧ください)

・すべての人に平等
・永久に変わらない
・智慧に裏付けられている

阿弥陀仏がこのような大慈悲の心から起こされた願いが「阿弥陀仏の本願」であり、それをまた「悲願」と言われます。
阿弥陀仏の本願とは「すべての人を必ず絶対の幸福に助ける」というお約束のこと。
阿弥陀仏が古今東西の全人類を、必ず助けてみせると命をかけて誓われたお約束なのです。

普通、約束といえば誰か特定の人とするものですが、阿弥陀仏が大慈悲の心から起こされたお約束ですから、すべての人を相手にされているのですね。
こんなお約束は他にはありません。
親鸞聖人はこのお約束のことを「超世の悲願」とも言われています。

では、阿弥陀仏の本願とはどんなお約束なのか。
どうしたら絶対の幸福に助けていただけるのか。
それを教えられたのがお釈迦さまであり、仏教です。

「仏教は聴聞に極まる」と言われ、聞くことが肝要と重ねて教えられています。
ぜひ、続けて聞いて頂きたく思います。

それでは、また(^^)

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