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煩悩に振り回されていませんか?|「煩悩即菩提」から知る煩悩と幸せの関係

 

2020/01/16

こんにちは!

緑茶を飲むとホッとする、チューリップ企画スタッフのわかです。

茶道を好んでいた三井物産初代社長の益田孝さんのことが、新聞のコラムに取り上げられていました。

仏教美術を始めとした古美術を収集し、茶道に取り入れていたことから、仏教に関心を持っていたようで、「茶煩悩即菩提」という言葉を好んで色紙に書いていたそうです。

煩悩ってなんですか?

頭に「茶」とつくのは、「茶」という字を分解すると「十」「十」「八十八」で、すべて合わせると「百八」、煩悩の数になるという意味だそうです。

「煩悩」とは、文字通り私たちを煩わせ、悩ませるものです

108ある煩悩の中でも特に恐ろしい3つを「三毒の煩悩」と言われますが、それが欲、怒り、妬みの心です。

それぞれ、どんな心なのでしょうか。

①欲

欲にもいろいろありますが、大きく5つに分けられます。

美味しいものを食べたい、飲みたい、という「食欲」、1円でも多くお金が欲しいという「財欲」、

異性を求める「色欲」、ほめられたい、嫌われたくないという心の「名誉欲」、そして、眠たい、楽がしたいという「睡眠欲」。

これらは五欲と呼ばれます。

振り返ってみると、朝から晩まで、私たちはこの欲に動かされているのではないでしょうか。

朝、目が覚めて一番に思うのは「まだ寝ていたい」ということ。これは睡眠欲です。

しかし、お腹がすくからしぶしぶ起きだして、ご飯を食べる。この場合は、睡眠欲より食欲が勝ったのです。

起きたままの恰好で外を出歩くことはできないので、身支度を整え出かける。これが名誉欲。

面倒だなあと思いながらも仕事に精を出すのは、お金のためかもしれないし、同僚の異性によく思われたいからかもしれません。

これはそれぞれ財欲であり、色欲ということです。

私たちが生きていく姿そのままが、欲に動かされている姿なのです

②怒り

それらの欲が妨げられて出てくるのが怒りの心です

気持ちよく寝ていたところをたたき起こされると、むっとする心は出てこないでしょうか。

楽しみにとっておいたデザートを家族に食べられてしまったら、腹が立たないでしょうか。

損をさせられたら、頭に血がのぼってはこないでしょうか。

大勢の人の前や気になっている異性の前で恥をかかされたら、ずっと忘れられないのではないでしょうか。

怒りは無謀に始まり後悔に終わる」と言われます。

腹が立ったらそのことしか考えられなくなり、あとは野となれ山となれ。

怒りのままにあらゆるものを焼き払い、気付いた時にはすべてを失って、後悔したことのある方もおられるかもしれません。

怒ってもいいことはないと思いつつ、一度腹が立ったら止められません。

それで皆苦しんでいるのです。

③妬み

そして、怒ってもどうしようもない相手には、ねたみや恨みの心が出てきます。

他人の幸せが癪に障り、自分より不幸な人を見るとホッとする

幸せな人を少しでも引きずりおろしたいと、陰で悪口を言ったり、傷つけたりするのはこの心が原因です。

自分でも嫌になる心が私たちの心の中には潜んでいるのです。

煩悩でできている人間

これら煩悩によって私たちは日々悩み、苦しんでいます。

この煩悩が減ったりなくなったりすればよいのですが、親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、すべての人間は「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」だと言われています。

「具足」とは、「それでできている」ということ。「凡夫」とは人間のことです。

すなわち、「煩悩でできているのが人間だ」と言われているのです。

一念多念証文(いちねんたねんしょうもん)』というお聖教の中には、次のようにも書かれています。

「「凡夫」というは、無明・煩悩われらが身にみちみちて、

欲も多く、怒り腹立ち、ねたみそねむ心多く間なくして、

臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」

煩悩は、死ぬまでなくなりもしなければ減りもしないものだということです

そうなると、私たちは死ぬまで煩悩に悩み、苦しみ続けなければならないのでしょうか。

仏教と煩悩の関係

一般的に、仏教といえば煩悩をなくすための修業をイメージする人が多いかもしれません。

実際、親鸞聖人も一度は山に入られて、煩悩をなくすために厳しい修行に励まれていました。

しかし、一心に修行に励まれた結果、煩悩はなくせるものではないということを知られたのです

もし、厳しい修行をして煩悩をなくさなければ幸せになれないということなら、修業をできないような人は決して幸せになれないということになってしまいます。

本来の仏教とは、等しくすべての人を相手に説かれたものです。

どんな人も、煩悩具足のままで幸せな身にしてみせると約束されたのが阿弥陀仏という仏さまです

煩悩あるがままで幸せになる「煩悩即菩提」の世界

阿弥陀仏は私たちをどのような幸せにしてくださると仰っているのか。

それが冒頭に出てきた「煩悩即菩提」という言葉で表されています。

煩悩はそのままで、それが幸せのタネになるということです。

その「煩悩即菩提」を分かりやすくたとえられた次のような歌があります。

「シブ柿の シブがそのまま 甘味かな」

シブ柿は、そのままではとても食べられませんが、干すと甘くなっておいしく食べられるようになります。

では、干す時に何か甘味を足したのかというと、そうではありません。

干すことで、渋がそのまま甘味に転じ変わったのです

「煩悩即菩提」とは、煩悩がそのまま菩提(幸せ)になるということです。

煩悩を減らしたり、なくしたりして幸せになるのではなく、煩悩がそのまま幸せになると教えられています。

とても想像もできない世界ですが、重ねて聞いていけば必ず分かると説かれ、たゆまず仏教を聞いていくことを勧められています。

必要なのは厳しい修行ではなく、重ねての聞法なのです

どんな人でも関係のあることが説かれているのが仏教ですので、この機会にぜひ続けて聞いていただきたいと思います。

浄土真宗中興の祖として有名な蓮如上人は、続けて聴聞していくことの大切さを教えられています。

水が石に穴を開ける? 蓮如上人が説く続けることの大切さ

それでは、また(^^)/

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