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“当事者意識”があなたを救う たとえ話に説かれたすべての人の姿とは

 

2020/01/16

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
チューリップ企画スタッフのわかです。

今期、続編として始まったドラマに「コウノドリ」があります。
産婦人科で働く医師たちを描いた漫画が原作の作品です。
医療ドラマは一様に「命」がテーマになることが多いですが、この作品も出産の現場を描いていますので、考えさせられる場面がたくさん出てきます。

子供を持つ女性の苦悩

前回から評判の高いドラマでしたが、今回の第1話では、あるキャリアウーマンの苦悩が描かれていました。
今まで仕事に頑張ってきた彼女は、出産・育児にあたり、仕事を休まなければならないことに不安を抱えていました。
彼女が抜けることで、職場の仲間にも負担がかかり、あまりいい顔はされません。

しかも、生まれてくる子供には病気があることが分かります。
本当に自分が育てられるのか、病気を抱えた子供と2人だけで家に取り残されてうまくやっていけるのか、仕事にはいつ復帰できるのか、不安は募るばかり。

出産も育児も女性の問題?

夫は仕事が忙しく、妻の不安などどこ吹く風で、他人事のような顔をしています。
本来、育児は夫婦で協力していくもののはず。
担当医である四宮は、妻に任せればいいという思いがありありと見える夫の様子が気になっていました。
不安がぬぐえない様子の妻に対して「俺も手伝うから頑張ろう」と声をかける夫に、四宮は鋭く言い放ちます。

「“手伝う”じゃないだろ。あんたの子供だよ」

出産するのも、育児をするのも、女性の仕事で自分には関係ない。
そう思っている男性は世の中にたくさんいるようで、1人で抱え込み悩んでいるお母さんたちは、このセリフに拍手を送ったかもしれません。
自分の子供だからこそ、本来は子育ての当事者としての意識を持つべきところ、仕事の忙しさもあってか、奥さんに任せきりにしてしまうのですね

「当事者意識」を持つと真剣になる

私たちは、自分のこととなれば問題の解決に真剣に取り組みますが、自分に関係がないと思ったら、真剣になれません。
基本的には別の人に任せておいて、大変そうだったら自分も手伝おう。
その程度に考えている人は、暇ができたときにしか取り組もうとしませんから、問題が大きくなった時には手遅れになっていることが多いのです。
「当事者意識」という言葉もありますが、「自分の問題である」ということを認識するのは、あらゆる場面において大切なのではないでしょうか

仏教を聞く時にも「自分のこととして聞く」ことが大切であると言われます。
他人事やおとぎ話のように聞いていては、真剣に聞くことができないからです。
自分の噂話には、聴覚を研ぎ澄まして一言一句も漏らさず聞き取ろうとするように、仏教も真剣に聞きなさいよと教えられているのです。
他の誰でもない、自分のことが教えられているからです

お釈迦さまのたとえ話

お釈迦さまは、私たちに分かるように例え話をよくされていますが、ロシアの文豪トルストイが「これほどまでに人間の姿を克明に表した話はない」と驚嘆したのが「人間の実相」です。
それは次のような話です。

ある時、一人の旅人が大きな荷物を持って無人の曠野を歩いていました。
季節は秋の夕暮れ時
都で稼いだ荷物を背に、家路へと急いでいたのです。

旅人が歩を進めていくと、足下に白いものがぽつぽつと落ちているのが目に留まりました。
最初は気にせず歩いていましたが、その白い“何か”は次第に地面を覆い尽くすほどになったのです。
さすがに気になって、旅人は足下に落ちている白いものを1つ手に取ってみました。
旅人は、大変驚きます。それは紛れもなく、白骨だったからです。

「なぜこんなところに白骨が…?」
立ち止まって考えていると、どこかから低い獣の唸り声が聞こえてきました。
恐る恐る声のしたほうへ顔を向けると、繁みの奥で2つの目が光っているのが見えます。
それは、飢えに狂った獰猛なだったのです。
その瞬間、旅人は理解しました。この白骨は、自分と同じようにここを通りかかった人たちが、虎に食べられた姿なのだと。

旅人は、荷物を投げ出し、一目散に元来た道へ引き返しました。
しかし、虎も久しぶりに出会った獲物を逃がすまいと追いかけてきます。
全速力で駆け抜けていた旅人でしたが、前方に崖があることに気づき、慌てて止まりました。
途中道が2手に分かれていたのを、旅人は恐ろしさのあまり、動転して間違った方へ進んでしまったのです。

窮地に立たされた旅人

崖の際には1本の松の木が生えていました。
旅人は一瞬、木に登って虎をやり過ごそうかと思いましたが、虎はネコ科の動物。木登りが得意なので、やり過ごすことはできません。
後ろからは虎が迫ってきている。
窮地に立たされた旅人の目に、松の木の根元から1本の細い細い藤づるが垂れ下がっているのが見えました。
これだ!旅人はすぐさま藤づるにつかまり、するすると崖をおりました。

そこへ、虎が追い付いてきました。
間一髪のところで獲物を逃がしてしまった虎は、悔しそうに唸り声をあげています。
旅人は、藤づるにぶら下がったまま、何とか助かったことに安堵しました。
そして、自分は今どんなところにいるのだろうかと下を見たのです。
次の瞬間、旅人は顔面蒼白になりました。

下には深い深い海が広がり、荒波が打ち付けている。落ちたらひとたまりもありません。
しかも、その深海から青、赤、黒の色をした竜が3匹、顔を出しています。
大きな口を開けて、旅人が落ちてくるのを今か今かと待ち構えているのです。

上には虎、下には深海と3匹の竜。
逃げ場がない状況に、旅人は恐怖し、すがるような気持ちで藤づるを握りしめます。
ところが、そんな気持ちも長くは続きません。
だんだんと状況に慣れてきた旅人は、空腹を感じ、食べ物がないかと上に目をやりました。
そのとき、白骨を見つけた時よりも、虎に遭遇した時よりも、竜を見つけた時よりも、更に恐ろしい光景を旅人は目にすることとなるのです。

何もかも忘れさせる「ハチミツ」

旅人が命綱とばかりにつかまっている藤づる。
その藤づるの傍に白いネズミと黒いネズミがいて、一定の速度で交互につるをかじっていたのです。
ただでさえ細い藤づるですから、そんなことをしたらすぐに噛み切られてしまいます。
噛み切られたら最期、旅人は深海にまっさかさまに落ちていくしかありません。

何とかネズミを追い払おうと、藤づるを揺らした時、旅人の手に何か落ちてくるものがありました。
どこかいい香りのするそれは、松の木にぶら下がっている蜂の巣から落ちてきたハチミツ
手に落ちたハチミツをなめた旅人は、そのあまりの美味しさに夢中になります。
そして、上には獰猛な虎がいることも、下には深海が広がり、竜が待ち構えていることも、白と黒のネズミが藤づるをかじり続けていることも忘れて、ハチミツをなめ続けました。

お釈迦さまが説かれた「私」とは?

ここまでお釈迦さまが話をされた時、その場で聞いていた勝光王という王さまが制止の声をあげました。
「その旅人はなんと愚かなのでしょうか。なぜ、そんな恐ろしい状況にありながら、ハチミツなどに夢中になるのでしょうか。これ以上は恐ろしくてとても聞いてはおれません」
お釈迦さまは静かに答えられました。
「そうだろう。しかし、この愚かな旅人とは、実はそなたのことなのだ。いや、そなただけではない。旅人というのは、すべての人の姿なのだよ」

旅人がすべての人の姿とは、一体どういうことなのでしょうか。
自分のこととはとても思えない。
その様に感じられる方がほとんどだと思います。
しかし、もし、自分が旅人と同じ状況にあるということを知ったなら、必死になって助かる術を探すのではないでしょうか

本当は旅人のように大変な状況下にありながら、そのことに気づいていない私たちに、警鐘を鳴らされたのがお釈迦さまです。
他の誰でもない、あなたのことが説かれているのだよ、と、この話の中にたとえられていることを順番に話をされたのです。

では、「私」とは一体どんな存在で、一体どんな状況にあると言われているのでしょうか
ぜひ、自分のこととして、続けて学んでいただければと思います。

それでは、また(^^)/

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