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求めているのは永遠の命? 哲学的な問いに隠された私たちの本当の願いとは

 

2020/01/16

いつもお読みいただき、ありがとうございます。

チューリップ企画スタッフのわかです。

未来を生きる人への問いかけ

東京にある日本科学未来館のチケットの裏に、哲学的な問いかけが書かれていると話題になっていました。

展示を通して科学技術に関する知識や情報を提供するだけでなく、来館者一人ひとりに科学技術や地球の未来を考えてもらい、さらには行動につながっていくような場を提供したい、という思いが込められているそうです。

問いかけは全部で8種類あり、どれも面白い質問でしたが、中でも私が気になったのは、次の二つの質問です。

「永遠に生きられたら、永遠に生きるだろうか?」

「どんなに親しい人にも知られたくないことがあるのは、なぜだろう?」

今回は「永遠に生きられたら、永遠に生きるだろうか?」の問いについて、仏教の側面から考えてみたいと思います。

お釈迦さまの「四門出遊」

「永遠の命がほしい」というのは、人間の願いの一つだと言われています。

仏教を説かれたお釈迦さまが本当の幸せを求められるきっかけとなったのも、「命が有限である」という現実を知られたことにありました。

このエピソードは「四門出遊(しもんしゅつゆう)」と言われ、学校の教科書などにも書かれているので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

お釈迦さまは、元々浄飯王という王さまの子供として生まれられ、シッタルタ太子と呼ばれていました。太子ですので、住んでおられたのもカピラ城というお城です。

そのカピラ城には東西南北それぞれに門があり、そこから外に出かけられたときのエピソードが「四門出遊」なのです。

ある時、東の門を出られた太子は、歯が抜け、腰は曲がり、杖に頼って歩く老人を見かけられ、自らもやがて老いていくことを知られます。

別の時、南の門から出られた太子は、床に伏せって苦しそうに息をする病人を見かけられます。

そして、今は健康であっても、やがて必ず病に倒れる我が身のことを知りました。

西の門から出られたときには、初めて葬式の列を目にします。

昨日まで血の通った顔をしていた人が、亡くなれば青白い顔となり、もう二度と動かなくなってしまうのだという現実を知られたのです。

そして、それは太子自身にも必ずやってくる未来でありました。

才能もあり、妻や子供にも恵まれ、王さまの子供という、何不自由ない未来が約束されている地位にあっても、いつか必ず失う時が来る。

老・病・死という避けようのない現実を目の当たりにされた太子は、最後、北の門から出た際に出会った修行者を見られて、本当の幸福を求めることが人生で最もなすべきことだ、と感じられました。

これが「四門出遊」のお話です。

永遠の命がほしい?ほしくない?

世の中には若くして亡くなる人もありますので、老いを経験しない人もあります。

一度も病気にかかることなく、生涯を全うする人もあるかもしれません。

しかし、七十億の人類がいても、死と無縁の人は一人もないのです

どんな人にも等しくやってくる未来が「死」ということです。

それは大変苦しいことなので、私たちはどうにかしてその未来を先延ばしにしようと日々努力しています。

医療の発達は一番分かりやすいものですが、政治にしても、経済にしても、よくよく考えてみると、人々をより長く生かすためにやっていることなのだなあと分かります。

だからこそ、昔から「永遠の命がほしい」と願われてきたのでしょう。

「永遠の命」が皆の願いだとすれば、「永遠に生きられたら、永遠に生きるだろうか?」というのは聞くまでもないことです。

しかし、実際に問いを投げられて、即答できないのはなぜなのでしょう。

永遠に生きることが本当に幸せにつながるかどうか、分からないからではないでしょうか

私たちが本当に欲しいものとは?

お釈迦さまは「人生は苦なり」と教えられています。

死は大変苦しく、辛いことですが、一方で生きることもまた苦しみだと言われているのです。

実際、私たちは、様々な悩み苦しみと日々戦っています。

人間関係、仕事、お金のこと、老後のこと、社会のこと、健康のこと。挙げればキリがありません。

その中、あまりにも苦しいために自ら命を絶つ人も少なくないのです。

もし、あなたが幸せであるならば、この時間が永遠に続けばいいと願うでしょう。

もし、あなたが不幸であるならば、この時間が一刻も早く終わればいいと願うでしょう。

私たちが永遠の命を願うのは、大きな苦しみである死を避けたいと思うからですが、生きていくことが苦しみとなれば、永遠の命を得ることは、永遠の苦しみに繋がりますから、誰も求めようとは思いません。

私たちが永遠の命を求めるのは、本当は、永遠に続く幸せを願ってのことなのです。

永遠に生きられたら、永遠に生きるだろうか?

私たちが求めているのは、永遠の命ではなく、それによって得られる幸せであることを、この問いは教えてくれているのではないでしょうか。

永遠の命が科学によってこの先実現するかどうかは分かりませんが、永遠の命よりも先に実現すべきは、どんな悩みがやってきても崩れない幸せになることなのかもしれません

そのことにいち早く気づかれ、すべての人が幸福になれる心理をさとられたのがお釈迦さまです。

仏教はまさに最先端を行っているようですね。

次回は「どんなに親しい人にも知られたくないことがあるのは、なぜだろう?」について、考えてみたいと思います。

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それでは、また(^^)/

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