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本当の私を見つめると何が見える? 自覚なく作っている罪とは

 

2020/01/16

いつもお読みいただきありがとうございます。
チューリップ企画スタッフのわかです。

2018年上半期の芥川賞が発表になっていましたね。
「芥川賞」というのは、作家、芥川龍之介の功績をたたえて創設され、今年で83年の歴史がある文学賞です。
芥川賞といえば、直木賞と並んで誰しも一度は聞いたことがある賞でしょう。
受賞する人は、やはり力のある作家さんなんだろうなあと感じます。

芥川龍之介が見た人間

この賞の由来である芥川龍之介は、今なお歴史に残る文豪の一人です。
作品は読んだことがなくても名前は知っているという人も多いのではないでしょうか。

実は7月24日は芥川龍之介の命日なのだそうです。
彼は「人生は地獄よりも地獄的である」という言葉を残しています。
多くの人から評価される素晴らしい才能を持っていても、人生に苦しむ一人の人間であることに変わりはなかったのだなあと考えさせられます。
むしろ、才能がある故に、いろいろなものが見えすぎてしまったのかもしれません。

学生時代、現代文の授業で『羅生門』を読みました。
この話の登場人物は、若い下人と老婆の2人。
冒頭、主人公である下人は、仕えていた主人から解雇されてしまい、羅生門の下で途方に暮れています。
盗人にでもなろうかと思ったけれど、悪いことだと思うとなかなか勇気が出ない。
そんな時、ふと羅生門の2階から人の気配を感じました。

興味を覚えた下人が上って見ると、身寄りのない遺体がいくつも捨てられている中、遺体から髪の毛を抜いている一人の老婆がいることに気づきました。
正義感から怒りを覚えた下人は刀を抜いて老婆を咎めますが、老婆は抜いた髪で鬘を作ろうとしており、悪いことかもしれないが、生きるためには仕方のないことだと言います。
それを聞いた下人は勇気が出て、老婆が着ていた着物を奪い、「生きるためには仕方のないことだ」と告げて闇の中へと消えていった。
そんなストーリーです。

仏教で説かれる罪とは

私たちは、「悪いことをしてはいけない」と小さい頃から教えられています。
他人から物を盗んではいけない、嘘をついてはいけない、生き物を殺してはいけない。
下人は悪いことだと思っているから盗みをはたらくことに躊躇していたのでしょうし、そういう人を見たら咎める気持ちだって出てきます。
何のためらいもなくそういうことをする人がいたら悪人と言われて嫌われるでしょう。
しかし、仏教で教えられる悪を知ると、胸を張れない自分であることに気づくのです。

仏教では、悪いことの1つとして生き物を殺す殺生罪が説かれています。
生き物を殺すのが悪いことだとはみんな知っていますが、仏教は更にこれを3通りに分けて教えられます。

・自殺(じさつ)…自分で生き物を殺すこと
・他殺(たさつ)…他人に命じて殺すこと
・随喜同業(ずいきどうごう)…他人が殺生しているのを見て楽しむ気持ちがあれば同罪

家に虫が出ると、お母さんは自分では怖くて対処できないので、一家の大黒柱であるお父さんが呼ばれます。
お父さんは、丸めた新聞紙で一撃のもとに虫を始末します。
それを見た子どもはよかったと喜ぶ。
その時々で配役は違えど、各家庭で日常的に見られる光景ではないでしょうか。

この場合、自ら手を下したお父さんは自殺、依頼したお母さんは他殺、喜んでいる子どもは随喜同業で、みんなそれぞれに殺生罪を作っているということになります。
たかが虫じゃないか、と言われるかもしれませんが、仏教では生命は皆同根であり、人間だろうと虫だろうと差別はありません。

また、私たちは肉や魚を食べることがあります。
それらも生き物の命を奪っていることになるのです。
自分は直接手をかけていないとしても、食べる私たちがいるからこそ業者は動物の命を奪うので、仏教で言えば私たちは他殺をしていることになります。

自覚なく罪を作っている私たち

それを、「生きていくためには仕方のないことだから」と罪の意識なく行っているのが私たちです。
自分さえよければいい、という自分勝手な心を我利我利(がりがり)と言われます。
自分が生きていくためには、誰が犠牲になっても仕方がない。
自分の名誉を守るために、多少嘘をついても許されるだろう。
そうして知らず知らずのうちに自分の行った悪を正当化しているのではないでしょうか。

では、本当に罪にはならないでしょうか。
殺生罪に関して言えば、「生きていくためには仕方がない」というのは、あくまでもこちらの事情であり、殺されていく虫や動物たちには関係のないことです。
どんな事情があっても、悪いことをしたという事実には変わりがないでしょう。

自分のしている行いを正当化し、自覚なく罪を作り続けている私たち。
自分の心を覗いてみると、我ながら嫌になるようなことを考えています。
だからこそ、芥川龍之介は人間というものに絶望し、35歳の若さで自ら命を絶ってしまったのかもしれません。

人間のありのままの姿を説かれた理由

誰でも、嫌なことからは目を背けたくなるものです。
仏教で教えられる人間の姿は良いものとは言えませんので、気分が暗くなると思う人もいるかもしれません。
しかし、お釈迦さまが人間のありのままの姿を説かれたのは、暗く沈ませるためでも、絶望させるためでもないのです。
ありのままの姿を知るところからしか、幸せになる道は開けないからです。

本当は病気である人が、自らが病気にかかっていると自覚しなかったら医者にかかろうという気にもなりません。
病気であると自覚して初めて、医者を必要とするのです。
同じように、自分のありのままの姿を見つめて初めて、ではどうしたらそんな自分が幸せになれるのかということが問題になります。
それが説かれているのが仏教です。

自分の姿をよく見つめて、本当に明るい人生を送りたいですね。
それでは、また(^^)/

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