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挫折しても不退転の決意で突き進む道とは? 「死ぬまで求道」を考える

 

2020/01/16

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
チューリップ企画スタッフのわかです。

サッカーワールドカップが開幕しましたね。
各スポーツで「ワールドカップ」と名のつく大会はありますが、ワールドカップといえば一番にサッカーを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
4年に1度ということもあり、世界的に注目度の高い大会です。

日本代表は今日初戦のコロンビアとの試合を迎えるということで、楽しみにしている人も多いかもしれません。
日本の過去の最高位はベスト16だそうです。
今回どのような成績になるかは分かりませんが、新たに就任した西野監督や、選手たちも試合本番に向けて気合が入っていることでしょう。

仏教で説かれる「不退転」とは?

4月に西野監督が就任した際、ニュースの見出しには「不退転の決意」という文字が各所に見られました。
「不退転の決意」というのは決意表明でよく使われる言葉ですよね。
しかし、この「不退転」が実は仏教に語源があるということはあまり知られていないかもしれません。

不退転とは、文字通り「退転しない」ということ。
これは、仏教で教えられる絶対の幸福を表された言葉です。
絶対の幸福には完成があるということを言われているのです。
どういうことか、私たちが日ごろ感じている幸せの特徴から考えてみたいと思います。

幸せとは欲を満たすこと

私たちが日々苦しいことがあっても頑張っているのは、幸せを求めてのことです。
どんな人でも、これに例外はないでしょう。
では、日々求めている幸せにはどんな特徴があるのでしょうか。

私たちの感じる幸せは、欲を満たすことによって得られるものです。
欲には大きく分けて5つあります。
食べたい飲みたいという食欲、お金が欲しいという財欲、異性を求める色欲、他人から褒められたい、嫌われたくないという名誉欲、怠けたい、楽がしたいという睡眠欲です。
これらの欲を満たすことができたとき、私たちは幸せを感じます。

ところが、欲にはキリがないので、これで満たしきった、ということがありません。
一度満たすともっともっとと際限なく求めるのです。
食べることでも、お金でも、名誉でも、これで満足、ということがないので、別の言葉では「死ぬまで求道」と言われます。

道を求めるとはどういうこと?

私たちは様々な「道」を求めています。
私は学生時代に部活で合気道を習っていました。
部活動なので取り組める期間は決まっていますし、その間にここまではできるようになる、という目標は決まっているのですが、それで終わりというわけではありません。
部活動で習得できるのはあくまで合気道の初歩の段階まで。
それ以上究めようと思えば、どこまでも道を追及することができるのです。

剣道、柔道、空手道などの武道はもちろんのこと、茶道や華道、書道という「道」もあります。
それらはこれで完成、という道ではなく、どこどこまでも求めていくものです。
無限の進歩向上ができるという意味で、「死ぬまで求道」と言われるのですね。
「道」という言葉がついていなくても、勉強、仕事、スポーツ、趣味、人間関係、あらゆるものは終わりのない道を歩いて行くようなものなのでしょう。

「死ぬまで求道」は幸せ?

進歩向上していくことは決して悪いことではありません。
昨日よりは今日、今日よりは明日と成長していくことは、私たちに喜びをもたらしてくれます。
しかし、では「死ぬまで求道」が本当に幸せかというと、そういうわけではないでしょう。
私たちが道を求めていくのは、求まるということを前提としているからです。

求めているものが求まらない苦しみを仏教では「求不得苦(ぐふとっく)」と言われます。
「死ぬまで求道」とは、死ぬまで求まらない道を求め続けるということ。
ゴールのない道を歩み続けることは、私たちにとって幸せとはいえないのです。
ところが、私たちが日常求めているあらゆるものは、これで満足というゴールのないものばかりなのではないでしょうか。

完成のある道を教えられた仏教

そんな中、完成、ゴールのある道を教えられたのが仏教です。
仏教で言うゴールとは、絶対の幸福になること。
絶対の幸福は欲を満たす幸せとは違うものですから、一度その身になったなら、崩れることも、色あせることもありません。

これを別の言葉では「平生業成(へいぜいごうじょう)」と言います。
「平生」とは、生きている現在ということ。
「業」は、人生の大事業ということで、絶対の幸福になることを言われます。
「成」は完成の「成」ですから、「平生業成」とは、「生きている現在、人生の大事業が完成する」という意味で、「生きている現在絶対の幸福の身になることができる」ということです。

「不退転」とは、色あせることも崩れることもない完成のある道を表された言葉なのですね。
そこから、並々ならぬ決意をする時の言葉として使われるようになったようです。

人生には、不退転の決意で臨んでも、途中で挫折してしまうことがたくさんあるかもしれません。
しかし、何に挫折したとしても、完成した、達成した、という道があるから、何があっても生き抜きなさいよ、と仏教では教えられています。

完成のある道ならば、大変なことがあっても不退転の決意で突き進むことができるかもしれませんね。
それでは、また(^^)/

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