スタッフブログ 暮らしの中で

本当は毎日が特別な日 今日という1日を大切にする視点とは

 

2020/01/16

いつもお読みいただき、ありがとうございます。
チューリップ企画スタッフのわかです。

早いもので、ブログを書き始めてから3回目の新年を迎えることができました。
昨年もたくさんの方に訪問していただき、本当にありがとうございました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

「平成最後」だから特別?

今年2019年5月に元号が変わることから、何かと「平成最後」が謳われていた昨年。
「平成最後の夏」「平成最後の紅白」「平成最後のセール」。
これだけ各所で叫ばれていると、もうすぐ平成が終わるのだなあという気がしてきます。
今年4月までは毎日が「平成最後の○○」ということになるのでしょうね。

それにしても、「最後」と言われると、なんとなく特別な感じがしてきます。
何も言われなければ、いつもと同じ1日で終わっていたところ、これだけ叫ばれると「もう二度とやってこない日なのだ」と強烈に意識するようになるのです。
だからこそ、「最後の思い出づくりに」と、大切に過ごすのでしょうね。
しかし、特別なのは今回に限ったことなのでしょうか。

1年のうち限られた特別な日

私たちには年に何日か「特別な日」が訪れます。
それは元旦もそうでしょうし、誕生日だったり、結婚記念日なども記念日として大切にしている人は多いと思います。
そういう日は特に意識して、1日の時間を大切に過ごすのではないでしょうか。
1年の中でも限られた1日だと思えばこそ、特別に感じるのですね。

逆に言えば、それ以外の日は「何でもない日」。
たくさんある中の平凡な1日ですから、特別な思いもなく、あっさり終わっても何とも思わないかもしれません。

「何でもないもの」が大切になる時

私たちはたくさんあると思うと大切にできない傾向にあるようです。
歯を磨く時に水を出しっぱなしにしてもさほど気にならないのは、水は蛇口をひねればどれだけでも出てくるものだと思っているからです。
お金を無駄遣いしてしまうのは、自分にどれだけ使えるお金があるのかを意識していないからでしょう。
休みの日をぼーっと過ごしてしまうのは、休日はまたやってくると思うからです。

それらが実はかけがえのないものだったということが分かるのは、有限であると気づいた時です。
もし、震災などで水道が使えなくなり、2リットルペットボトル1本分の水しか使えなくなったら、いつものように盛大に水を使うことはできないでしょう。
もし、あと1週間を1000円で過ごさなければならなくなったら、どこに使うべきかを真剣に悩むはずです。
同じように、今日の1日がもう二度とやってこない1日だと知ったら、大切に大切に過ごすのではないでしょうか。

仏教に教えられた人生の時間

哲学者のパスカルという人は、「残り1週間の命となってもなすべきことがあるならば、それは一生をかけて取り組むべきことである」と言っています。
もし、自分に残された時間が1週間しかなかったら、自分が普段しているほとんどのことはどうでもよくなってしまうかもしれません。
「1週間」という期間を示されることで、時間の貴重さが感じられてくるのです。

パスカルは1週間という時間を提示していますが、お釈迦さまは私たちに残されている時間について、次のように仰っています。

出息入息 不待命終
出る息は入る息を待たず、命終わる

吸った息が吐き出せなくなったら、その時が人生の終わり。
私たちの命は一息一息の間におさまっていると教えられています。
人生は、まだまだあるように見えて、実はとても短いものだということが分かります。

また、浄土真宗親鸞聖人が詠まれた次の歌もあります。

明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは

明日も見られると思っていた桜の花も、夜に嵐が来ればあっという間に散ってしまう。
私たちは明日も明後日も生きていられると思っていますが、今晩何かのことで命が終わったら、明日という日はやってきません。
「明日」はまったく保障されていない日なのです。

「今日が最後かもしれない」という視点

私たちが生きる「その日」が人生最後の日になる可能性は大いにあるということです。
「平成最後」と強調されれば、なんとなく特別な感じがしてきますが、私たちにとって「最後」はいつも隣にあるものなのでしょう。
ですから、本当は毎日が自分にとっての「特別な日」なのですね。

「今日が最後の日かもしれない」という視点は、何でもない日だと思っていた今日が、特別な日であることを気づかせてくれる視点です。
元号が変わると変わらないとに関わらず、今年も日々を大切にしていきたいですね。

それでは、また(^^)

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