「悪人」とは人間の代名詞 『歎異抄』から知る真実の私
2020/01/16
いつもお読みいただき、ありがとうございます。
チューリップ企画スタッフのわかです。
誰に届いた脅迫状?
現在放送中の『アンナチュラル』という法医学ドラマが面白く、続けて見ています。先日放送された第4話のテーマは「長時間労働」。
バイク事故で若くして亡くなった男性の死因究明を軸に、男性と家族とのエピソードが描かれ、感動したという声も多かったようです。
その死因究明のための解剖を進めているとき、主人公たちがいる部屋にいつの間にか1枚の紙が置かれていました。
紙には次のように書かれています。
「お前のしたことは消えない。裁きを受けろ」
「お前」というのが誰かも分からず、チームの面々はもしかしたら自分のことかもしれないと、過去自分のした過ちについて思いを巡らせます。
そんな中、一匹狼で、いつもチームに非協力的な中堂という法医学者が、「あの脅迫状は自分に向けて送られたものだ」と断言しました。
なぜ、そんなはっきりと言えるのかと尋ねると、今までにも同様の脅迫状が送られてきていたのだと言います。
一体何をしたのか追求しようとする主人公でしたが、中堂はその問いには答えませんでした。
「罪のない人間なんているのか?」
それだけ言い残し、その場を後にしてしまいます。
『歎異抄』の衝撃的な一節
このセリフから、私は自分が仏教を学び始めた時のことを思い出しました。私が仏教の教えというものに触れたのは、学生時代、日本史の授業が最初だったと記憶しています。
鎌倉仏教の1つに浄土真宗があり、その開祖が親鸞聖人とは、多くの人が学ぶことですが、その教えは「悪人正機(あくにんしょうき)」であると聞いた時、私は不思議でなりませんでした。
「悪人正機」とは、「悪人こそが正客」ということです。
親鸞聖人の教えが記された『歎異抄(たんにしょう)』の中に次のような一節があります。
「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」
「善人でさえ助かるのだから、悪人はなおさら助かる」と言われているのです。
それを言うなら「悪人でさえ助かるのだから、善人はなおさら助かる」ではないのか?
正直に、まっすぐに生きている善人こそ報われてほしいという思いを持っていた私には、この言葉はとても受け入れられるものではありませんでした。
教科書の解説を読んだとき、モヤモヤしたものがずっと残っていたことを覚えています。
お釈迦さまが教えられた十悪(じゅうあく)
数年後、仏教を学ぶ機会を得た私は、仏教が「廃悪修善(はいあくしゅぜん)」を教えられたものであると知りました。「廃悪修善」とは、「悪いことをやめて、善いことをやりなさい」ということです。
しかし、実行するにも、善とは何か、悪とか何か、が分からなければできません。
そこで、お釈迦さまは、善悪について詳しく教えられています。
お釈迦さまが具体的に、悪とは何かを教えられているのが十悪(じゅうあく)です。
貪欲(とんよく)…欲の心
瞋恚(しんに)…怒りの心
愚痴(ぐち)…ねたみ・そねみ・うらみの心
綺語(きご)…お世辞を言うこと
両舌(りょうぜつ)…二枚舌
悪口(あっこう)…人の悪口を言うこと
妄語(もうご)…ウソをつくこと
殺生(せっしょう)…生き物の命を奪うこと
偸盗(ちゅうとう)…盗みをはたらくこと
邪淫(じゃいん)…邪な男女関係のこと
この十悪について聞いた時、私には思い当たることがたくさんありました。
自分は、法律に反するようなことはしていないし、比較的善い行いにも努めているし、どちらかと言えば善人だろう、と思っていました。
しかし、よくよく自分の心を見ていくと、胸を張って善人だとは言えないことが分かってきたのです。
仏教が教える真実の私とは
仏教では、人間のことを「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と説かれ、「煩悩でできているのが人間だ」と言われています。「煩悩」とは、欲や怒りやねたみ・そねみの心のこと。
私たちの行いは、心が元となっているので、欲や怒りいっぱいの心であるならば、それが口や身体の行いとなって出てきてしまいます。
自分の名誉を守るためにウソをついたり、食欲を満たすために生き物の命を奪って食料にする。
怒りから他人を傷つけるようなことを言い、ねたみから他人の仲を引き裂こうとする。
煩悩がない人はありませんから、すべての人が、日々悪を作りながら生きているということになります。
罪のない人間はいないということです。
「悪人」とは誰のことか?
仏教の教えを学んだことで、『歎異抄』に書かれている「悪人」とは、人間の代名詞であり、私のことを言われているのだということがようやく分かりました。そんな「悪人」である私たちを正客に、必ず本当の幸せに救われる道を教えられたのが、お釈迦さまであり、親鸞聖人だったのです。
とはいえ、いきなり「あなたは悪人だ」と言われてすぐに納得できる人はいません。
だからこそ、お釈迦さまは私たちの心に沿って順番に教えを説いていかれたのです。
悪人とは人間の代名詞だと言われるが、本当だろうか?
私は日頃善い行いに努めているから、あの人よりはましだろう。
いろいろな疑問や思いを持ちながら、仏教の教えを自分の心と照らし合わせて見ていくのが、聴聞するということなのですね。
仏教を学び、よくよく自分の心を見つめていきたいと思います。
それでは、また(^^)
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この記事を書いたスタッフ
チューリップ企画コールセンターのわかと申します。
静岡の温暖な気候の中で育ったせいか、のんびりと構えていることが多く、周囲からはよく「いつも安定しているね」と言われます。
日常の様々な出来事を物語化することが好きです。
学生時代、家ではほとんどの時間を机の前で過ごし、ノートに散文を書きためる日々を過ごしていました。
そんな小さい頃からの癖で、日常の出来事を無意識に観察していることがあり、見ているうちに周囲の人間関係も客観的に把握することができるようになりました。
今まで見てきた人間関係、自分自身の悩んだ経験や、日々の電話応対の中でのお客様の声などを通して、皆様の悩みに寄り添える記事を書いていきたいと思います!